ノリコのお布団で添い寝ブログ

ファンシーな煩悩のOLさん

四丁目の夕日


多くの法規や慣習がそうであるように、道徳心も、自分のためではなく他人のためにあるのではないか?と考えたことがあるのは私だけではないと思う。

互いに迷惑を掛けず、お互いに生活から生命まで守り合うということがつまりは自分も守られているということなんだろう。

だが、それを遵守しない他者が突如現れたらどうするのだろう。

それでも私たちはニコニコしながら道を譲り合い、幼児に微笑みかけ、買い物をすれば店員に「ありがとう」と声を掛けるのだろうか?



山野一「四丁目の夕日」

主人公たけしは怒涛の不幸ラッシュに襲われる。
そして何一つ解決しない、報われない。
だんだんと気が変になってきて、言動も常軌を逸脱したモノとなる。

狂ってしまうのだ。しかし、ファミレスのシーンを見れば、狂っているにもかかわらず、コーヒー代250円をきっちり置いて帰っていく律義さが彼にはある。
この場における律義さ、良心はたけし自身のためにあるものではない。
その数ページ前の凶行を除けば、たけしは真面目さ、道徳心、義理堅い内面を何となく行動で表している。
真面目で律儀で義理堅い…これは他人にとって害のない安全安心な自分という社会的な価値であって、それ以上のモノ(自らに起こること)はあくまで付加的な要素でしかないのだろうと思う。

物語はここから佳境に入っていく。
雨宮荘の住人である、狂人の爺様が弟の誕生会に乱入してのシーンだ。
狂人だから社会ルールなんてお構い無しである。
ひとしきり凶行を働いた上、たけし宅のカレーを食べたりする。
本当に狂っている。
しかし、我らがたけしも狂っているのだ。
狂人対狂人。
なかなか見応えのある一戦である。
諸々あり、結果たけしは長期にわたる精神的療養を余儀無くされる。

さすがに社会の道理を乱す人間が現れると自らの道徳心を保てなくなるようだ。
しかしたけしは長い精神療養の果てに社会復帰を果たすではないか。

完全に狂ってしまえる人間なんてそうはいないんだと思う。
余談だが、わたしはニュースなんかで目にする、公の場において心神喪失状態で云々なんて判決が出たりすると胸糞悪い気持ちになることがある。

そう簡単にホンモノになんてなれやしない。理由も無いのに、なんとなくそう思うのだ。


兎にも角にもたけしの身近には「オヒスラブ」の予感も芽生え、これはこれで大団円なんだろう。
たけしは社会的価値を取り戻したのだ。
ここまで来てやっと、生来の真面目さなどが、これほどまでの人生を歩んだたけしを救うのだ。


最終コマがつげ義春作品にも通じるタッチ、構図なのがまた良い。眼科の看板なんてまさしくではないか。