少年は残酷な弓を射る
日付をまたぐ頃に見始めたので、途中で寝ちゃうかもと思ったけど寝る事なく見終えた。
というか、予想の三倍面白かった。
予告編だともしやグダグダ長々とした暗い話?とイメージされそうだけど、意外にね、見入ってしまった。
単身で暮らす中年女性エヴァの、日陰者な暮らしぶりを淡々と主軸として描き、そこにエヴァの記憶を挟んでいく。
記憶の中でエヴァはいつでも悩んでいる。いつでも苛々としている。
悩みの種は息子のケヴィン。
ケヴィンの悪童っぷりはある意味お楽しみポイントなので、気になる方は本編をご覧下さい。
で、悪ガキ極まりない息子と手を焼く母なんてありがちな(積み木崩し的な?しかも今更流行らなそうな)ストーリーなのになぜしっかりと見れてしまうのか。
ある事件まで、エヴァと息子のケヴィンは当たり前のように一つ屋根の下で生活をしていた。
毎日いつでもお互いを認識しながらの生活。ましてや懐かない息子の悪行に手を焼くエヴァはうんざりし、声を荒げて息子を牽制する。
息子ケヴィンもケヴィンで、エヴァを困らせるのが生きがいと言わんばかりに何でもやらかす。
しかし、ある事件を契機にエヴァは再び一人の生活を始める。
エヴァの記憶の中の自分自身と異なり、日向は歩けないが腹を据えた気持ちが確かにあるようだ。
エヴァの元に宗教の勧誘らしき者が訪ねてくるシーンでのエヴァの一言。
ここは悲壮なんだけど爽快感のあるシーンでグッとくる。
状況がどちらに転ぶかわからないから人間は悩んでしまうことがある。もっと悪いことが起きたら、という不安と、もしかしたら、という淡い希望。
でも、想像し得なかった最低な状況が起きてしまったら悩む余地もなくなる。
ただひたすらに発生する義務を果たすかひたすらに何かを犠牲にする生活、あるいはその両方をこなしていくという事態しか大体待っていない。
愛情の対義語が無関心だという。
では、無関心の対義語は愛情なのだろうか?
人間誰しも承認欲求のような、対他者・対組織・対社会と様々な場面で自分の存在を色んなカタチで認識させたいという欲求がある。
この人には好かれたい。あの人には威圧感を与えたい。ココでは出来るオトコと思われたい、とか。
そういった、明確な希望があればあるほど他者が自分に対して無関心になられるのは落ち着かないものだろう。
他人を変えることは難しい。だが、無関心でいられては困るのだ。
この映画に散らばる点を簡単につなぐと、ケヴィンは母の愛情が自分だけに向くことを求めている、と捉えられるのかもしれない。
わたしがこれを見て点を繋いだら少しだけ違うまとめになった。
ハツラツとして、それなりのキャリアも家庭もあるエヴァには何も欠けているものがない。
でも全て無くしてしまえば、そして自分が生きてさえいれば、エヴァの現実にはケヴィンの存在がこれまでとは比にならないほど大きなものとなる。
これは支配だろう。
愛情だとかそういうものだけで語れない。
エヴァの愛情ではなく、エヴァそのものを所望していたんだろう。
やだ…ケヴィン、恐ろしい子!
ところでこのケヴィン役の男の子、一見、アジアの血が入ってそうな雰囲気も醸し出しつつ、萩尾望都のマンガに出てきても良さそうな顔立ちの表情を時折する。
こういう、瞬間瞬間でイメージを変えられるっていい役者になりそうでなんかいいなぁ。